2009年7月 2日 (木)

吾輩ハ猫デ「在ル」

    I am a cat.

ヘタをするとまた怒鳴られる。「お前が猫なわけないだろう!」たしかに「猫」ではないが、「猫のようななにか」である可能性は、その発言者のことをよく知らずには即断できない。そう、この英文は「私は猫です」と語ろうとしているというより、「私は猫のような人間なのです」と訴えている。再び「過補語」再燃となってしまった。それにはわけがある。

   「Be動詞もわからないなんて・・・」

こんな、ややはき捨てるようなボヤキを耳にしてしまったからだ。そして全身を弱い電流のようなものが走った。はっきりとは覚えていない。でも確かに一度誰かに言われた言葉だった。Be動詞「が」ではなく、Be動詞「も」である。

   「is、am、are であることはわかるらしいけど、それだけ」

いいじゃないかそれで、と内心思った。ボヤキを聞きつづけていると、批判の対象になっている学習者の基本的英文法力を云々しているのはわかっていたが、「どのBe動詞にどの主語を使えばいいのか、わかっていない」という問題の中核にヒットした。しかし、これには尾びれがついていて、「高校生のくせにBe動詞も知らないなんて」という導入から「いきなり笑い出したりするのが許せない」という別の問題に到達した。結局、文法というより学習者の態度に難癖をつけていたことになる。

   Be動詞でなければ疑問詞でも不定詞でもいいようだった。

ところで、ボヤいていた当人達はBe動詞のことを本当にわかっているのだろうか、と思った。そう思ったとたん、また電流がジン!と流れたような気がした。

   「どうして I is になったり、You is と言わないのだろうか?He is や She is と言うんだったら、どうして I と You の場合はそれぞれ am と are に変化してしまうのだろう?」

と純粋に考えたことがある。中学のときだった。am が I にしか使えないことを教わったとたん、なぜかポケットからなんでも取り出すニ頭身のネコの主人のお年玉がたった「50円」であったことを思い出し、切なくなってしまった。それから be という原形―本来は不定形と呼ぶべきもの―があることを知って、Be動詞がなにか特別なものであるという実感とともに、なぜこんなに様変わりしなくてはならないのか、どうしてもっと「落ち着いて」同じ格好をしてはいられないのか、などと質問でもしようものなら先生に困惑顔をされることばかり考えていた。

   もっとも困ったのは、Be動詞がどういう意味になるかであった。一言でBe動詞が何であるかを言ってしまえば、「在る」ということになる。しかし、先生も生徒もおおかた「デス」というような答え方をする。「デアル」と言っても、「で在る」という意味をこめてはいないし、一言で誰も答えようとはしない。文型の二番目に出てくる「SVC」、又は現在進行形や受動態を使うときにBe動詞が出てくる、という言い方をする。しかしBe動詞が一体何であるかはわからないまま。

   そんなわけだから、Be動詞を使ったいわゆる「熟語」なる

   as it were 
   if need be
      the powers that be

のような表現が出てきても、すべて「覚えるべき慣用句」などともっともらしい名前をつけてカテゴリ化するから、丸暗記する以外方法はなかった。

   Be動詞が「在る」という意味である(←これも在る)ことを一点の曇りもなく理解できたのはラテン語文法のおかげだが、それ以前にもBe動詞そのものの姿をとらえることはできた。ある有名女優の近況を書いた某ウィークリー・マガジンを読んでいたときのことであった。タイトルが

   The Way She Is

だった。いつも、何歳になっても、「the way she is」のままである、と書きたかったのだろうか、内容にはさほど気持ちが入ってゆかなかったのに、このタイトルだけは奇妙にまぶしく光り、「なるほど」と思った。直訳すれば「彼女の『あり方』」になる。「在り方」と書くべきか。しかしこれでは哲学のテーマを読んでいるみたいだから、「彼女の素顔」や「彼女のまま」と言ったほうがいいかもしれない。この表現を使って、

   That's not the way she is.

などと言ってみる。「らしさ」を表す表現はいくつもあり、これもそのひとつで、否定語があるから「彼女らしくない」と語っていることになる。もっとそれらしく言えば、「いつもの彼女じゃない!」というところか。「いつもの彼女」つまり、「彼女の素顔」はその人本来のあり方を語ろうとするわけだから、is つまりBe動詞は「在る」という意味をもつことが必然となる。

   なので、I am a cat. は「私は猫です」ではなく、漱石先生が名付けたとおり、「吾輩ハ猫デアル」が相応しく、それをさらに英語的にやれば「吾輩ハ猫デ在ル」になる。もっともこの小説は猫が語り手ではあるが。

   Be動詞の素顔が多面的なのはラテン語のBe動詞が現在時制だけで六つの顔をもつことと無関係ではない。英語はゲルマン祖語をもち、このゲルマン祖語のBe動詞も八方美人である。しかし、ふつう教室でこのような話を聞くこともあまりなさそうだ。とにかく教室では am は I am、are は You are、is は He is / She is という接続を覚えればよく、また主語とBe動詞だけでは意味が完結しないから「補語」を置け、と文型「SVC」の登場とあいなる。主語とBe動詞だけでは意味が完結しないというのはそもそも間違いで、God is. と言えば「神は存在する」になるし、

   Whatever is is.

という英語もその真価を発揮する。この英文の主語は Whatever is で、「在るものは何でも」を表し、動詞が再び「在る」だから、直訳すれば「在るものは在るんだ」になる。もうちょっとわかりやすく言えば、「存在するものは、誰がなんと言おうと存在するんだ!」というところか。余計にわかりにくなったかもしれない。

   こんなにフカ~イBe動詞なのです。わかったつもりでも、油断はできません。最近少し嬉しかったのは、息子を幼稚園へ自転車で送ってから帰り道に「esse」という名前の軽自動車を見た。「自動車の名前はラテン語が多いと書いてあったが、本当だ!」とホクホク。ラテンBe動詞の「不定形」がそのまま名前になっている。英語だとまさに「BE」だ。まるで「ここに在るよ」と訴えているようでかわいい自動車だなと思った。

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2009年6月20日 (土)

過補語Ⅲ 「おれは男だ!」

   I am a man!

   これでだれも文句は言わないだろう。ちゃんとSVCの形になっており、補語も補語になりきっている。しかも「おれは男だ!」だ。現千葉県知事のなつかしい熱血ドラマのタイトルでもあるし、たのもしい。I am Kyoto University.(オレ、京大)でこっぴどく叱られたのをなんとか取り戻せる

   のかな・・・?

   文法クラスで欠けているものと言えば、自分でいうのもなんですが、さまざまある。そのなかでどうにかしなくてはならないブラックホールのような洞穴は、習った文法表現を「いつ使えばよいのか」に類するものです。端的に言えば、いつ、どこで、

   I am a man!

と言えばよいのか、なのです。言う方(話し手)には一応「おれは男だ!」と叫んでみたい動機があるはずです。先刻のドラマでは、超美人ヒロインである「吉川クン」に現千葉県知事がアピールしたい決め台詞であることはわかりますが、いまどきこのような言い回しは流行らない。というか、

   「で?」

と聞き返されかねない。「そんなの、見ればわかる」と答えられたとき、咄嗟に次の台詞が思いつくだろうか。

   見てもわからないとき、I am a man! は状況的に完璧となるでしょうが、この表現が自分の意図にまったくないと、ちょっと切なく空しい。「本当に?」なんて返されると、次の台詞は何かなどと考える余裕もなくなる。同時代に爆発的人気を博したコント55号の「なんでそうなるの!」と言いたくなる。

   しかしもっと切なく空しく悲しいのは、この英文が文法クラスに出てきたときの扱われ方でしょう。どんな表現でも教える側の人間は、英文にケチをつけてはならないから、とにかく英文法的観点から分析と解説を試みなくてはなりません。キビしい生徒であれば、ケチつける前にちゃんと解説しろ、である。

   さて、I am a man. をどう解説するか。SVC構文で構成され、主語の I 、連結動詞の am 、不定冠詞のついた補語 man でこの英文はできている、といったところで何の閃きがあるのだろう?そしてその意味は「おれは男だ」になる。

   もうこれ以上の解説ではムリ、しても意味がないと学習者側も悟れば、そこでケチをつけてもいいのかな、という雰囲気を感じ得る。しかし、同時に「次へ進め!」という視線も入り混じるから、したい脱線もできなくなるのが常かも知れません。

   しかし、仕事はまだ残されているのです。少なくとも次の4つは。

   ① 主語の「I」とは誰のことか?
   ② なぜ、I am a man. という必然があるのか?
   ③ 意味は「おれは男だ」で十分なのか?
   ④ I am the man. との違いは?

まだあるかも知れない。でも学習者の興味と理解を考えれば、これでも多いかも知れない。まず①ですが、これは発言者その人になる。見るからに男らしい人、男らしくない人を問わず、そのように絶叫する人本人になるので問題はなさそうですが、問題は文法クラスの例文になって出てきたときに、誰を指すかわからない場合が多い。SVCの例文を出すためにカンタンな英文を載せるという気遣いは返って混乱を招かねない(→これは解説ではなくケチですね)。

   ②は、これを発言する当人が伝統的な「男像」を否定されたり、女性からちっとも相手にされないからついアピールしてみたくなったり、手洗いはどこかと聞いたらわざわざ連れてくれたのはいいが、そこは女性用なので仕方なく自分の性を云々してみたり、「子供」ではなく自分は「大人」であることを相手に促してみたりと・・・とにかく状況がはっきりしていないと発言の動機自体がよくわからないのですが、このような「この英文の必然」を考えるのは思考訓練になる。 I am a man. をSVCの例文だけで扱うのでは、別に I am a woman. でもいいわけだし、I am a crazy old man. でもいい(→解説でもケチでもない)。

   ③と④は実は関連している。I am a man. と I am the man. の違いは言うまでもなく man の前にある冠詞の違いである。よく冠詞の不定形・定形の違いをそれぞれ「~は」と「~が」に当てはめて考える冠詞の参考書もあり、その線でゆけば

   「おれは男だ」
   「おれが男だ」

という違いになり、わかりやすくなる。「おれは女ではなく男だ!」と叫んでいるのが不定冠詞の方の a man、「問題の男というのはこのおれだ!」と勇ましくドーンと胸を叩いてみせるのが定冠詞の the man。和文の説明はこれでいいとしても、和文にはなく英文にあるリアリティはまだ説明していない。

   I am the man. の定冠詞 the には「時間経過」が感じられます。つまり過去から現在に至る「幅」のような厚みです。その厚みに「事情」を感じ、謎が解けたという衝撃さえ感じ取れるのです。不定冠詞のついた名詞は再び話題に取り上げられることで、つまり時間が経過したところでその名詞は「定冠詞+名詞」として再登場する。いわば a は必然として the という足跡を残すことになる。しかしその足跡は残るものもあれば、跡形なく消えてしまうものもある。

   the White House の the は、1800年に竣工した大統領官邸が 1812年に焼け落ち、五年後の1817年に再建した際に壁を白く塗ったことからそのように呼ばれ、以来この the が大統領官邸の「白亜館」を指すようになっているので、かなり古い。しかし足跡はしっかり現在もちゃんと残っている。

   I am the man. の the も、「さっきあんたが『ブ男』って言ってたのはね、オレのことなんだ」というヒヤヒヤする近い過去 から、時効になって法の拘束がとけてから真犯人が警察に「実はね、オレだったんだよ」と遠い過去をイヒヒと薄笑いで語るところまで、時間の幅は実に広い。

   それに対し a は「新出」という運命から逃れることはできない。過去時制を使っても、名詞にくっついた a は何か新しく語ろうとしているのです。ただ、the になくて a にあるのは、the が「ひとつしかない」身分であるのに対し、a には「他にもあるでよ」と自他の存在をほのめかしているところです。I am a man. とは「おれだけが男だ」と言っているのではなく、

   「おれも男だ」

と語っているのです。そう、「おれ『も』男だ」です。「おれ『も』男だ」はどこか覚悟を決めたトーンが感じられるので、吉川クンに告白する一歩手前の緊張感が伝わってくる。つまり「おれ『は』男だ」より説得力があるのです。

   しかし、I am a man. が「おれ『も』男だ」であると言った途端に、生徒(弟子)は、

   「それは I am a man, too. ではないのですか?」

と木刀を鋭く振り下ろしてくる。が、この木刀はたやすくかわせる。I am a man, too. は話している話題の中に「I am a man!」とすでに誰かが叫んでいる証拠となり、それに呼応して「おれも男だ!」と言っているだけです。I am a man. には事前の I am a man. はまったく必要ではない。

   SVCという考え方は、S=Cという超簡単な図式にすりかえられてしまう。S=Cでは説明しきれないのが 「be 動詞」のはたらきであり、主語に対してあくまで補う立場にある「補語」は心理的に「I」の一部でしかありえないのです。「私」は男で『も』あるし、父親で『も』、息子で『も』ある。会社員で『も』あれば、英語オタクで『も』あるし、恋多き風流人で『も』ある。最後のは、まあ、思いつきですが。
   
   これで「過補語」シリーズはおしまいです。

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