吾輩ハ猫デ「在ル」
I am a cat.
ヘタをするとまた怒鳴られる。「お前が猫なわけないだろう!」たしかに「猫」ではないが、「猫のようななにか」である可能性は、その発言者のことをよく知らずには即断できない。そう、この英文は「私は猫です」と語ろうとしているというより、「私は猫のような人間なのです」と訴えている。再び「過補語」再燃となってしまった。それにはわけがある。
「Be動詞もわからないなんて・・・」
こんな、ややはき捨てるようなボヤキを耳にしてしまったからだ。そして全身を弱い電流のようなものが走った。はっきりとは覚えていない。でも確かに一度誰かに言われた言葉だった。Be動詞「が」ではなく、Be動詞「も」である。
「is、am、are であることはわかるらしいけど、それだけ」
いいじゃないかそれで、と内心思った。ボヤキを聞きつづけていると、批判の対象になっている学習者の基本的英文法力を云々しているのはわかっていたが、「どのBe動詞にどの主語を使えばいいのか、わかっていない」という問題の中核にヒットした。しかし、これには尾びれがついていて、「高校生のくせにBe動詞も知らないなんて」という導入から「いきなり笑い出したりするのが許せない」という別の問題に到達した。結局、文法というより学習者の態度に難癖をつけていたことになる。
Be動詞でなければ疑問詞でも不定詞でもいいようだった。
ところで、ボヤいていた当人達はBe動詞のことを本当にわかっているのだろうか、と思った。そう思ったとたん、また電流がジン!と流れたような気がした。
「どうして I is になったり、You is と言わないのだろうか?He is や She is と言うんだったら、どうして I と You の場合はそれぞれ am と are に変化してしまうのだろう?」
と純粋に考えたことがある。中学のときだった。am が I にしか使えないことを教わったとたん、なぜかポケットからなんでも取り出すニ頭身のネコの主人のお年玉がたった「50円」であったことを思い出し、切なくなってしまった。それから be という原形―本来は不定形と呼ぶべきもの―があることを知って、Be動詞がなにか特別なものであるという実感とともに、なぜこんなに様変わりしなくてはならないのか、どうしてもっと「落ち着いて」同じ格好をしてはいられないのか、などと質問でもしようものなら先生に困惑顔をされることばかり考えていた。
もっとも困ったのは、Be動詞がどういう意味になるかであった。一言でBe動詞が何であるかを言ってしまえば、「在る」ということになる。しかし、先生も生徒もおおかた「デス」というような答え方をする。「デアル」と言っても、「で在る」という意味をこめてはいないし、一言で誰も答えようとはしない。文型の二番目に出てくる「SVC」、又は現在進行形や受動態を使うときにBe動詞が出てくる、という言い方をする。しかしBe動詞が一体何であるかはわからないまま。
そんなわけだから、Be動詞を使ったいわゆる「熟語」なる
as it were
if need be
the powers that be
のような表現が出てきても、すべて「覚えるべき慣用句」などともっともらしい名前をつけてカテゴリ化するから、丸暗記する以外方法はなかった。
Be動詞が「在る」という意味である(←これも在る)ことを一点の曇りもなく理解できたのはラテン語文法のおかげだが、それ以前にもBe動詞そのものの姿をとらえることはできた。ある有名女優の近況を書いた某ウィークリー・マガジンを読んでいたときのことであった。タイトルが
The Way She Is
だった。いつも、何歳になっても、「the way she is」のままである、と書きたかったのだろうか、内容にはさほど気持ちが入ってゆかなかったのに、このタイトルだけは奇妙にまぶしく光り、「なるほど」と思った。直訳すれば「彼女の『あり方』」になる。「在り方」と書くべきか。しかしこれでは哲学のテーマを読んでいるみたいだから、「彼女の素顔」や「彼女のまま」と言ったほうがいいかもしれない。この表現を使って、
That's not the way she is.
などと言ってみる。「らしさ」を表す表現はいくつもあり、これもそのひとつで、否定語があるから「彼女らしくない」と語っていることになる。もっとそれらしく言えば、「いつもの彼女じゃない!」というところか。「いつもの彼女」つまり、「彼女の素顔」はその人本来のあり方を語ろうとするわけだから、is つまりBe動詞は「在る」という意味をもつことが必然となる。
なので、I am a cat. は「私は猫です」ではなく、漱石先生が名付けたとおり、「吾輩ハ猫デアル」が相応しく、それをさらに英語的にやれば「吾輩ハ猫デ在ル」になる。もっともこの小説は猫が語り手ではあるが。
Be動詞の素顔が多面的なのはラテン語のBe動詞が現在時制だけで六つの顔をもつことと無関係ではない。英語はゲルマン祖語をもち、このゲルマン祖語のBe動詞も八方美人である。しかし、ふつう教室でこのような話を聞くこともあまりなさそうだ。とにかく教室では am は I am、are は You are、is は He is / She is という接続を覚えればよく、また主語とBe動詞だけでは意味が完結しないから「補語」を置け、と文型「SVC」の登場とあいなる。主語とBe動詞だけでは意味が完結しないというのはそもそも間違いで、God is. と言えば「神は存在する」になるし、
Whatever is is.
という英語もその真価を発揮する。この英文の主語は Whatever is で、「在るものは何でも」を表し、動詞が再び「在る」だから、直訳すれば「在るものは在るんだ」になる。もうちょっとわかりやすく言えば、「存在するものは、誰がなんと言おうと存在するんだ!」というところか。余計にわかりにくなったかもしれない。
こんなにフカ~イBe動詞なのです。わかったつもりでも、油断はできません。最近少し嬉しかったのは、息子を幼稚園へ自転車で送ってから帰り道に「esse」という名前の軽自動車を見た。「自動車の名前はラテン語が多いと書いてあったが、本当だ!」とホクホク。ラテンBe動詞の「不定形」がそのまま名前になっている。英語だとまさに「BE」だ。まるで「ここに在るよ」と訴えているようでかわいい自動車だなと思った。
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