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2010年2月 5日 (金)

仮定法と黒澤明

    よく参考書に(文法書ではなく)仮定法の説明として「現実にはないことを『もし~だとしたら』と仮定する」とか「直説法が現実について叙述するのに対し、仮定法は空想や妄想上のことを仮定する」というものを目にする。これで仮定法が何であるかピンとくればいいのだが、どうもよくわからない。
   
    仮定法とは何か、と聞かれ場合、様々な答え方があることは容易に想像できるが、いざどれを例に出すかとなれば、助言をする者は躊躇するであろう。「hope と wish のちがいですよ」と言ってみたところで、それらの動詞が導き出す直説法と仮定法の例をズルズルと引き出してみなければならず、私がよく使う「穴があったら入りたい」という感覚だと力説しても、若い人の中には「何で穴に入りたいんだ?」と逆に質問を受け、「じゃ、表へ出て穴を探しましょう!」とノリノリの御仁に提案されてしまいそうだ。
   
    「穴があったら入りたい」は、恥ずかしくて仕方がないを比喩にしたものだから、英文で書けば、
   
    I couldn't be more embarrassed.
   
という、まさに「仮定法」で描くことができる。無論、「穴」は例えの表現であるから、入りたい場所が別に「ベッドの中」でも「押し入れの中」でもいいわけだが、いずれにせよ語られた単語自体が重要なのではない。直説法で「穴があったら入りたい」を言うと、本当に穴を探して入りたいと訴えていることになるのだが、日本語では文法上直説法、仮定法という目印があるわけではないので、文脈から察する以外方法はない。

  ところが英語になると、were や could、would といった「仮定法の形」がしっかりとあるのに、「仮定法」の存在を感じ得ていないことが多い。やはり「現実にはないことを『もし~だとしたら』と仮定する」などと説明しても、「hope と wish のちがいですよ」としたり顔で言っても、「穴があったら入りたい」と日本語でも仮定法はあるんだと息巻いても、どこかスケールが小さい。もっと壮大なスケールで仮定法をとらえることができれば、と考えているうち、黒澤明のことが頭に浮かんだ。

   私はひそかに黒澤明は仮定法の映画作家ではないかと思っている。どの作品を見ても「できればこうありたい!」という主人公たちが画面狭しと立ち廻っている。これらの主人公をたんに「ヒロイズム」だと解している人がいるが、それなら黒澤映画でなくても「こうありたい!」と活躍する主人公は多くの映画に登場するわけなので、そういう意味で黒澤映画が特別なのではない。

   黒澤明のメッセージ(こういう表現を監督はひどく嫌った)は、主人公により具現化されていることはもちろんだが、むしろ映画そのものが壮大なる仮定法になっている。例えば、今でももっとも理解されていない作品のひとつ「生きものの記録」がそうだ。主人公は、一代で鋳物工場を築き上げ、妾も三人囲い、その子供たちにも金銭的援助を惜しみなくする60代の老人(昔はこの年で立派な老人)だが、核爆弾を恐れ、一家でブラジルへ逃避しようとして家族から反対される。決して「こうありたい」というタイプの主人公ではない。この主人公に感情移入できない観客が多数を占めたのか、映画は不入りだった。

   しかしこの映画は、仮定法を使った黒澤のメッセージがまさしくウランのようにもっとも凝縮された一本であることには間違いはない。それは、「家族にもう少しブラジルへ行きたがる老人を思いやる心があったなら」や、「もっと事業拡大を目指せば原水爆のことなど気にならないのに」であるとか、「ただ敏感すぎるんだ、特異体質なんだ、そうじゃなきゃいいのに」という類の仮定ではない。黒澤のメッセージは恐ろしいほどストレートで、それは主人公が水爆実験が一面になった新聞を破りさきながら吐き捨てるように言った「こんなバカなものを作りやがって!」という直説法の台詞に隠れた「核などなくなってしまえ!」と叫ぶ仮定法なのだ。まさに核のない世の中を切望した黒澤。しかし、観客は「直説法」の部分ばかりに目を向け、「あんなヘンな老人はいない、堂々と妾を囲って、怖いものはなにもないような風体なのに原水爆実験を異常に恐れ、結局は気がおかしくなってしまって終わりだなんて」と指摘し、映画といえば「原水爆に対してなにもできないでいる」と評されてしまった。黒澤の独特なる映画文法は通じなかった(私には痛いほどわかるのだが・・・)。

   これにもめげず、もう一度壮大な仮定法を映画に使った一本がある。もっともこの映画は黒澤の手で映画化とはならなかったが、真珠湾攻撃までの日米を描いた大作「トラ!トラ!トラ!」がそれだ。

   この映画は「日米は戦争などしなくてもよかったのだ」という仮定法が根幹になっているのだが、結果から言えばこの仮定法のトーンはかなり低調になりすぎ、戦闘シーンという血わき肉おどる直説法の部分ばかりが目立つこととなってしまい、日本では大ヒットとなったが、アメリカでは「負け組み」側になるので不評だった。

   この映画自体ははじめから終りまで直説法一辺倒だが、ところどころ仮定法が顔を覗かせる仕組みになっている。「もっと粘り強い日米交渉があったなら」「近衛総理がもっと山本五十六の言うことを聞いていたら」「せめて日本政府の米政府に対する最後通告があと数時間早くタイプ化され、ハル国務長官のところに届けることができていれば」「オパナ・ポイントの大レーダーがキャッチした日本連合艦隊攻撃機の大群をハワイ司令部が確認できていたら」「真珠湾内に入ろうとした潜水艦発見という情報がキンメル提督に届いていたら」「第二次攻撃隊のあと日本軍がさらに攻撃を真珠湾に送っていたら」など、数多く仮定法をイメージできるシーンがあった。

   しかし映画の基本となるトーンは、当時おそらく黒澤本人が日本映画界の斜陽を憂いていたこともあり、「こんなことをしていては大変なことになる!」という未来に対する仮定であったはずなのだが、結果として限りなく薄くなってしまった。せいぜい在米日本全権大使の野村吉三郎が「私が恐れていた戦争が本当に起こるかもしれない」と呟いたり、御前会議の「重大決定」を押し付けられっぱなしの山本長官が「戦争ばかり口にするバカどもめが。一度でもそのことを考えたことがあるのか!」と凄むところくらい。真珠湾に突き進んでゆく日本軍が勇ましく映る直説法の方を観客は賞賛した。

   そんな映画が3分の2ほどが過ぎたころ、たった一言「仮定法」を口にするシーンがでてくる。それはアメリカ海軍ハワイ司令長官のキンメル提督が、司令部の窓を突き破って飛んできた流れ弾が自分の体にあたって落ちるときに呟くシーンだ。その流れ弾を見つめ、キンメル長官は、

   It would've been merciful had it killed me.

と部下に呟く。直訳すれば「死ねば慈悲だったろう」となるが、これは例えの表現にすぎず、その下には「この重責を私はどう負えばいいのだ」という声がきこえる。しかしそんな台詞をマトモに直説法で吐いたのでは司令官らしくもない。やはり仮定法が相応しい。

   ところが、このキンメル提督を演じた俳優マーチン・バルサムが、監督のリチャード・フライシャーに「この台詞は何を言おうとしているのかわからないから、言いたくない」と申し出た。キンメル長官が本当にそう言ったか、シナリオの段階でそう書かれたのか確認はしていないが、監督は申し出を受付けず、そのままフィルムになった。

   考えてみれば、この台詞は武士が口にしてもおかしくない。「この弾で死ぬのが武士の情け」とは黒澤が発案し脚本に書いたのではないかと勝手に解釈している。なにせ脚本の第一稿は撮影すると7時間にもなる長さだから、「日米は戦争を回避できるチャンスはあったのだ」と訴える仮定法的表現が盛り沢山あったのではと想像する。マーチン・バルサムにとっては、早々死んではいられないし、どんなに過酷でもそれを乗り越えてゆくのが司令官の役目だと考えているとしたら(仮定法ですね)、あの台詞は「弱音」としか受け取ることができなかったのかもしれない。私もこのシーンをはじめて見たとき弱音に聞こえてしまった。

   怒涛のような勢いで攻め入る日本軍の勇士には仮定法は向かない。泣く子も黙る軍部の力を抑える力は日本の政治家にはなかったのごとく、この映画でも戦争反対の急先鋒となるはずの山本五十六をはじめ、野村吉三郎大使、同じく戦争を望まなかった駐日グルー米大使、そしてもっとも戦争を回避したかった天皇陛下(映画には映らない)という顔ぶれが、いつのまにか戦争不可避の真っ只中にいるわけなので、直説法の波に押しまくられた印象しか残らない。

   結果としてむしろ戦争をすべきだというトーンに流れてしまったのは、日本側の撮影を担当した演出家のせいではなく、シナリオの改訂を経て決定稿がそのような流れを作ってしまったのではないかとにらんでいる。結局、黒澤明はこの映画の演出を降りた(降ろされた)わけだが、彼を取り巻く関係者が異口同音に言うように、それでよかったのかもしれない。後に「戦闘シーンを描くだけで戦争賛美になる」という内容のことを黒澤は語っていたが、それより彼が「例え演出しても」、考えていた壮大なる仮定法の実現にはつながらなかったのではないか、ハワイ真珠湾攻撃は決して「騙まし討ち」ではなく、ちゃんと宣戦布告をする用意があったのだと訴えても、なにも変わらないような気がする・・・

   それでもやっぱり、黒澤演出による「トラ!トラ!トラ!」を見てみたかった。切に、

   I wish, even now, that the movie "Tora!Tora!Tora!" had been directed by Kurosawa, and Kurosawa alone.

という仮定法を思わず使って訴えたくなるのは私だけなのか。
   
   

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