2009年2月13日 (金)

英文を Listen する前に

   TOEIC対策クラスを終えて帰宅しようと準備していたときのことです。クラスの生徒が質問をしてきました。
   
   「TOEICの勉強って、どうやったらいいんですか?」
   
しばし呆然となってしまいました。これがユーモアのつもりで言ったのだとしたら、そのセンスのよさに感動し「あなたの英語感覚はTOEICを超越しています」とお返ししたところです。無論、当人には冗談めいたところは微塵もなく、本当に困惑していた様子でしたが、それはTOEICのための勉強法がよくわからなくて困っているのではなく、こっちの顔を見て困惑していたに違いありません。おそらく私の顔は

   「だからTOEIC対策クラスに来ているでしょ?!」
   
と無言のメッセージをしばらく放っていたはずです。ふと考えると、この生徒は欠席がちで、クラス参加が満足にできていなかったために学習方法がよくわからないままでいることに気がつき、無言のメッセージは尚しばらく続いたのでした。

   「欠席しないでクラス参加しなさい!」
   
と説教がましい顔つきだったと思います。冷静さを取り戻した私は、手短に説明をしながら、「何でしなきゃいけないんだ!」と何度も思わず喉をついてでてくる衝動を抑えようと努力しました。「はい」という返事をあとに生徒は帰っていきましたが、釈然としない後味が残ったことでしょう。私もです。

   しかしもっと冷静になって考えてみたら、この生徒の「迷い」は、一喝したり一笑に付すという、質問を受けた側のきまり悪さを何とかしようとするリアクションの方法で済まされるような問題ではないことがわかったのです。英語学校へ通っているのに、英語の学習方法がよくわからない・・・。どう考えてもオカシイのですが、このおかしさの原因を作っているのは学習者というよりむしろ英語を教える者の認識のなかに深く根ざしているものではないか、と思うのです。「TOEIC対策クラスに来ているのだから、学習方法はわかっていて当然だ」と言いがちですが、問い返すことのない無条件反射的思考は、ときに学習の方向を大いに見誤ってしまう危険をはらんでいるようです。
   
   典型的な例が「聴解力」をつけるための学習プロセスです。リスニング力をつけるための方法は様々提案されており、実際に学習を通して「実感」するよりはむしろリスニングの方法を謳った「宣伝」に学習者の目は注がれます。「聞くだけでグングン力がつく」「リスニングは多聴、速聴だ!」などという文言はどうしても気になるものです。
   
   特定の個人の聴解力を伸ばすには、その人の英語履歴や音に対する癖などを理解した上、どの英語圏で話される英語をメインに学習するかなど、学習前に認識しておかなければならない問題があるのですが、「宣伝」はこのような個人の特質を帳消しにするような万能薬的効力を伝えようとします。心にとどきやすい「スイスイ」「ラクラク」などの言葉が潤滑油となって「とにかく多く幅広く聞けばいいんだ」と、単眼的な取り組みが主流となってしまいます。
   
   繰り返し多くを聞く、というのはリスニング力をつける条件の一つに文句なく入ると思われますが、ここで「リスニングとはなにか?」を問わなくてはいけません。
   
   一昔前は、リスニングのことをヒアリングと言いました。なぜそうなったのかは詳しく知りませんが、この二つは「きく」ことを共通項としながらまったく異なった「きき方」を表しています。リスニング(Listening)は、相手の言うことを「注意深くきく」ことで、広辞苑によればこれを「聴く」としています。一方ヒアリング(Hearing)は自然に入ってくる音をきくことで、同辞書では「聞く」としています。「きき方」の順番はまず音を自然体で「聞いて」から、興味があったりわからない部分がでてきたりすると「聴く」ことになります。いずれの「きき方」も音を理解するという意義が前提になっています。
   
   さて、私たち日本人英語学習者が「英語の音」を「きく」とき、いったいどっちの方法を使って「きいている」のでしょうか?おそらくほとんどの場合が「聴く」、つまりリスニングをしているのではないかと思われます。なぜなら、もしヒアリングをして理解できる英語の音ならリスニングをする必要はなくなるからです。
   
   ところがここで矛盾に気づくはずです。リスニングをするのはヒアリングではわからないから「注意深く聴く」ことになりますが、ヒアリングができないのは相手の声が極端に小さい、発音に相当な個性的アクセントがあるので理解しにくいから聞き耳を立てるわけであり、少し努力してリスニングをすれば、ほとんど解決できる場合が多いと考えられます。しかし!私たちはいったいどれほどヒアリング力をもった上にリスニングを試みるという自然な「きき方」を実践しているのでしょうか?ちょっと頑張って聴いて「ああ、そういうことなのか」と頷いているのでしょうか?ひょっとすれば、ヒアリングもロクに出来ないまま、懸命にリスニングをやろうと奮闘しているのではないでしょうか。
   
   発音もアクセントも正統派(俗にアトランティック・イングリッシュと呼ぶ人がいます)で、速度も適度である英語が耳をついたときに hear できなければ、どんなに listen しても理解を得ることはむずかしいでしょう。何度も聴いた挙句、頭の中にうっすらと「関連語」が思い浮かぶことはありますが、これを日常レベルで「聴く」はもちろんのこと、ましてや「聞く」とは甚だ言いにくいものです。まず私たちのやらねばならないことは、ただ「聞いている」だけではなく、「聞いて理解できる音を増やす」ことであろうかと思います。
   
   文法や訳読が英語の伸長を妨げ、多読や多聴が「いずれ英語が溢れてでてくるようになる」アプローチであると絶賛する声がありますが、「ではどれほど聴けば、読めば溢れてくるのか?」という問題には的確に答えていません。それに「きく」という行為は「話す」という「きいた内容」の確認をすることでその内容が正しいか正しくないかを知りうる必要不可欠なる手段ですから、この「話す」を抜きにして「理解」が生まれるとは非常に考えにくいのです。
   
   どうやら私たちはヒアリングができる能力がどれほどあるのかを問わず、「とにかく多くを聴けばいい」と表向き納得し、そうでなければ「多読をしてリスニングに役立てる」とお決まりのアドバイス通りやっていれば、いつの日か「聞ける!」力がついているはずだ、努力すれば何とかなる、と気合を入れひたすらリスニングをしているようです。テストともなると、もうリスニングしかしなくなるのです。そしてTOEICの三者または四者択一問題を解くわけですが、答えが予めテストブックに書かれてある(パート2は音声で三つのうち一つが正解になっている)ので、正解を注意深く選ぶ(と言っても時間をかけるのではない)わけですから、ヒアリングができなくてもリスニングでなんとか凌げる場合が多い。
   
   直接は教えていないのですが、20年ほど前、TOEICで945点をマークした生徒がいました。その後映画「ブラック・レイン」の撮影でマイケル・ダグラスの通訳をつとめたこともあり、英語には相当自信を持っておられたのですが、あるクラスでアメリカCNNの放送を「聞いた」途端わからなくなり、「聴こう」とされたのですが、思ったほど理解ができなかったので「もう一度やり直します」と語られました。そう、CNNには正解を含む「選択肢」などはありませんから、hear できる力がないと、報道内容はついてゆくのが本当にむずかしいものです。

   件の生徒だけではなく、TOEIC対策クラスを受講される人の多くは、ヒアリングが出来ない状態ままリスニングをしようとされています。「聴いてみたけどよく単語が拾えない」などと言う学習者には根本的な問題がまず理解できていないように思われます。TOEIC対策クラスは、英語の窓口が英会話とは多少異なるものだとしても、hear して理解できる力を養うという点においてはいささかのズレもありません。
   
   「TOEICの勉強って、どうやったらいいんですか?」という質問は、ついに「hear できなくてもどうやれば listen して理解できるようになりますか?」に「聞えて」しまったのです。

2008年10月14日 (火)

模倣志向 1

   自分の部屋にある本を整理しよと奮闘しはじめてから、一度通読しただけでおそらくもうこの先10年は読まないであろう本がワンサカでてきました。同時に書店へ行って衝動的に読みたいと思った本も「もう一度読むのはこの先10年内にあるだろうか」と考えると、まったく買う気が薄れ、本を買わない代わりに、作ったカードを5年は使用していない図書館へ足を運んだ。遅まきながら、図書館で間に合うような本が夥しくあることに気づき、ここ数ヶ月は借りまくっている始末です。
   
   その中のひとつに、ある尊敬する英語関係の著者が共同執筆で出した本が目にとまり、早速借りました。その本の中身は、稀なことですが、90%以上納得のゆく内容で埋め尽くされ、何度も頷きながら一気に読み負えたのですが、ただ一点だけ「これでいいのかなぁ」と思ったところがありました。
   
   英語学習にしろ日本語を国語として学ぶにしろ、「型」や「素読」の重要性を中心に説きながら、「訳読」「メモとりの力」「音読」「回し読み」という具体的な訓練を通じて言語能力を高めるという方法は問題なく賛同できました。ところが、おや?と思ったのは、「先生の役割を生徒にやらせてみる」方法を応用した練習が、まとめながら情報力をつける手立てとして効果的だというところにさしかかり、一応はスンナリ理解できたのですが、「英文法攻略にもいい」と及んだところで急ブレーキをかけてしまいました。先生が行う文法説明をそっくりそのまま自分のものにできる、という斬新な方法なのですが、私は「そうかなあ」と考えはじめてしまいました。
   
   「芸」の世界では、型から入って型へ出てゆくと例えられるように、師匠の模倣をすることがとにかく大切であることを教えられます。習うより慣れよ、という格言が疑われることなく息づく修練でしょう。この本の模範例としては、文法の先生がその日の文法項目、例えば「完了時制」を教えるのなら、先生はあらかじめ用意しておいた「説明」を生徒に披露し、生徒はしっかりとメモとりをおこないつつ、なるべく多くの情報を先生の口からとらえようとします。そして、生徒にいくらかの時間を与えたあと、とったメモの「再生」をあたかも「先生のように」発表し、どれだけうまく再生できるかが目標のひとつであるらしい。
   
   この方法が効率よければ、学習内容を問わず、「八割」の内容がとれるという優れもの技法ということになり、思わず学習者はとびついてしまうことでしょう。
   
   しかし、英文法となると、話は異なります。それには以下のような問題がどうしても文法学習には大きくかかわり、生徒が混乱してしまうのではないか、と恐れているからです。つまり、
   
   1)先生の模倣をしても文法の理解が深まるとは限らず、
   2)先生の情報が間違っていたらそのまま生徒に「伝染」
     してしまい、
   3)文法説明の暗記は文法項目の理解とは別物であり、
    4)文法を自他に向け説明できても、肌で感じなければ解
     説暗記にすぎず、
   5)そして、模倣すべき先生が「知らない文法世界」につい
     てはまったく模倣できない
   
と言う理由で、「覚える」効率性はよくても、あくまでそれは先生という「お手本」の枠内で行っていることですから、試験範囲の決まっているテストを行うようなものです。しかし実際英文を読むとき、試験範囲であるかどうかなどと問うことはなく、習った文法や英文構造とは似ても似つかない英文がでてきたりします。そのような場合、「習っていないからわからない」と都合よく答えることができますが、それでいいのかどうか、考えてしまいます。よく、

   「学校には学校の遣り方があり、従って『学校英語』はまったく自然的、論理的な結論である。学校ですべてを教えるわけにはゆかない。学校英語が実用向きでないという批判がされこれまで随分長い間されてきたが、それはどこか『実用向きな英文法』に対し『実用向きではない英文法』が存在しているような批判にしか過ぎない。あくまで学校で学ぶ英語は、自動車でいう『教習』そのものであり、実際の運転も練習する。教習が実際の運転と異なるのは実際の道路で運転しないだけの話だから、教習で行う運転を実用向きではないというのはまったく馬鹿げた話である。学校英語にしてしかりだ」
   
に類する声を耳にすると、一理あるなと頷いてしまいますが、刹那、疑問が浮んでくるのです。教習所では実際に実技訓練を教官の指導のもと徹底的に行うわけですが、実技のチェック項目は実に端的で明確、「右へ曲がって」という指示を左に解釈するという根本的な混乱がない限り、メキメキと力はついていきます。口うるさい教官には辟易となることもありますが、その分ちゃんと実力というオマケがついてくる。

   ところが英語の場合、やかましく文法や発音を矯正されても、自動車教習にはなくて英語にある「メッセージの伝達」そのものをどう扱うかがまったく議論されていないのです。安全運転を目的にした教習に「私なりのメッセージ運転」などはなく、また実際の道路上でも、一部の「大音響嗜好」の運転以外にメッセージ性はほとんど感じられません(レーサーは例外でしょう)。英語は技術という面が仕上がれば、そしてその出来がよければよいほど、周りの期待は「メッセージ」によせられるのです。発音がネイティブ並にうまく、文法も正確な学習者は、英語を母語とする人なら「込み入った話」を仕掛けられるターゲットになります。もしそのとき、「類型的な答え」しか返ってこなかったとしたら、残酷なことですが、会話は長く続かないでしょう。

   英語(外国語)を「体感」させ「体得」させるのに模倣は大切な方法のひとつだと思われます。ただ、それを「類型」に終わらせるのではなく、英語を発信する個人のメッセージが含有されていていいはずです。「いいお天気ですね」という定形的な会話の中にさえ、話者の魅力がほんのりと出てくるのです。この場合、個人のメッセージとは、主義主張をお天気の中にも盛り込むというのではなく、言葉を発すること自体がメッセージの原点であることを思わせる「味わい」を意味します。

   毎日聞いて話している日本語の存在意義などだれも大袈裟に考えたりしない日常ですが、その日本語とはまったく異なる英語を先生について訓練し、そのあかつきには「ごく当たり前」に聞えて、「ごく自然に」口を付いて出てくること、これは学習者の望むところでしょう。そして英語が日常的に「当たり前」になったとき、かつて文法を学びながら、自分の言いたかったことを苦労の末言えるようになった感激はどこを探しても見つからず、忘れ去ったことさえ覚えていないのかもしれません。
   
   しかし、「言葉を発する自分」に味わいを求めようとするなら、どんなに「当たり前」になろうと、自分を常に意識しているわけなので、いつも新鮮な気持でいられるような気がします。模倣を繰り返し、表現や語法を「当たり前」にすると同時に、発せられる言葉の狭間にその存在を感じさせる「文法」の息遣いを感じ取る必要があるのです。つまり、「言葉の発声自体が文法である」ことにほかならないのです。このことが学校で十二分に理解され、「文法=自己の発信」が実践されたら、上記共同執筆の有名な著者が仰る「コミュニケーション能力本位と謳って英会話の練習ばかりさせる沙汰」をどうにか好転できるのでは?とおこがましく考えております。

2008年6月26日 (木)

添削のむずかしさ

   英語(のみならず印欧語のほとんど)が単語のみならず文法もラテン語を手本にしているということを知ってから少しずつラテン語の世界を自分なりに広げようと書物を読みはじめてから数年がたちます。知れば知るほど現代英語の英文法がいかにラテン語の子孫的な動き方をしているかに驚いてしまいますが、それよりもっと驚くことがありました。それはあるラテン語文法の著者がその著作の中で「英語を書くとき絶望的に難しいと思い知らされるのが定冠詞と不定冠詞である」と記していたからです。つけると添削者に省かれるし、省くとつけられる。

   ラテン語には冠詞がなく、日本語と同じように名詞を与えられた情況から判断することになります。だからラテン語のほうが英語より日本人にとって学習しやすい、と考えるのは、発音が英語よりずっとやさしいからスペイン語やイタリア語が学習しやすい、と早トチリするよりさらに後悔することになる可能性が大きいため、即断は禁物でしょう。各言語には固有の面白さがあり、英語には「冠詞」という個性(他にもたくさんあります)が英語を英語らしいものにさせているのだと考えたい(そうは思いませんか?)。

   ちょっとびっくりしたのは、ラテン語の世界を知り尽くしたような大先生が「冠詞が絶望的に難しい」と告白されたところです。「つけると添削者に省かれるし、省くとつけられる」というのはやや強調があると思われますが、よくわかる気がします。現在英文の添削者側にある自分の立場からみれば、学習者にとり冠詞の不思議さはすぐに煩雑さになり邪魔くささに豹変してしまうのがよく理解できるのです。なぜなら、添削する際に単に冠詞を足したり外したりするのではなく(その方法もありますが)、なぜここには定冠詞がくるのか、なぜそこで不定冠詞のほうがふさわしいのか、について説明を施したくなるからです。結果、エッセイは言うまでもなく、ワン・パラグラフの英文だけを添削するにも相当な労力を必要とします。

   英語とは比べ物にならないほどその緻密性、煩雑性をコントロールできるラテン語の大家が「絶望的」になるとは、やはり「冠詞」は難物には違いないと結論付けることはできます。しかし、添削者のほうが冠詞をつけたり省いたりするだけで、「なぜ」の説明が施されていないようなら、ラテン語の大家だけでなく学習者にとり理解は程遠くなるのも無理はありません。仮に綿密な添削解説を行ったとしても、学習者が理解してくれるとは限らないので添削者はときどき添削自体に「絶望」を感じるのかもしれないので、冠詞はますます難物であり続けるようです。

   それでも添削は必要です。いくら添削者が現行の英語教育に「絶望」を感じたとしても、添削が学習者を助けるもっとも有効な手立てのひとつであるからです。添削者のある一言が学習者を救うことになりうるからです。今まで努力を払い学んできた英語を「動かす」ことができるからです。
   
   しかし添削と言っても、ただ赤ペンを走らせて訂正を施しただけでは学習者には「自分が間違っていた」ところを指摘されたに過ぎません。なぜ訂正されなくてはならないかの説明がなくては、赤く添削者が書いた部分を「暗記」しなければと無条件反射で考えてもらっても困ります。その反対に問題の箇所をただ「違う」と書き、なぜ間違ったのかを学習者に考えさせる方法がありますが、まず冠詞でこれをやると間違いなく学習者は絶望するでしょう。
   
   どこまで説明すればいいのか、訂正するのであればどの程度原文の変更が許されるのか、非常にむずかしい。私がふだん心がけているのは、例をパラグラフ・ライティングにとれば、文章の「流れ」が自然であるかどうかを添削の訂正判断規準においているところです。これは多少文法が崩れていても英文の流れが自然でありさえすれば添削対象にしない、ということではなく、英文の自然な流れはきちっとした文法に立脚しているという認識のもと、訂正の有無を決定しています。これまで少なく見積もっても一万パラグラフは添削してきましたが、その中で典型的なミスを「印象的」に並べてみますと、以下のようになります。
   
   1)名詞の数・冠詞の選択
   2)不必要な接続詞
   3)時制の適用
   4)助動詞の選択
   5)動詞の選択
   6)代名詞の選択
   7)前置詞の選択
   8)語順
   9)関係詞の用法
   10)仮定法の適用
   
あくまで「印象的」にとらえていますので、頻度で言えば語順より関係詞の問題のほうが多いかもしれません。このように並べてみたのは学習者がついうっかりしてしまうと犯してしまう「間違いやすさ」を基準にしてみたのですが、ただ1)の名詞と冠詞の問題は「うっかりしていたから」という次元のものではありません。これはがっしりと四つに組んでもなかなか「正解」が得られない、英作泣かせの迷路でしょう。

   うっかりの代表は2)と3)です。必要もないのに "but" と "so" が顔を出す。特に安易にやってしまうのは "so" です。例えば、
   
   I woke up at 7:00 in the morning, so I washed my face.
   
に見られる "so" です。朝7時に目が覚めることと顔を洗うことは因果がありそうに見え、実はないのです。英語的な流れで考えると「朝7時に目が覚めた<から>顔を洗った」となり、8時に起きたら顔を洗わない人なのか?と読んでしまうのです。自然な流れにするには

   I got up at 7:00 this morning(又は that morning), and (I) washed my face.
   
となるでしょう。動詞は got up にしなければ、ただ目を覚ました(woke up)だけで顔を洗ったことになってしまいます。これは5)の問題ですね。in the morning はこれでもよいのですが、欲を言えばいつの朝なのかを書く習慣をつけたいところです。そして接続詞2)の問題です。 "so" を "and" にして自分のとった行動の順序を位置づけるだけでこの場合は十分です。

   学習者にこの "so" の連発が実に多いのです。そして指摘は添削上しやすいのですが、わかってもらえにくい項目のひとつです。なぜなら、日本語をベースにして英文を書いている場合が多いので、書き手としては「自然に」やっているつもりだから、ちっとも不適切だとは思っていないのです。そしてどうやら思いたくない人が多いようなのです。
   
   冠詞の説明はほどほどにしないと学習者の英語履歴如何では却って混乱を招いてしまいます。なのでその学習者の特徴をとらえてポイントを一つに絞るわけなのですが、「冠詞」という項目分野だけで学習者は引いてしまうことがあるようです。半面、解説しやすく見えて実は伝わりにくい性質をもった「接続詞」の適用があります。この両極端に挟まれ、添削者は「さて、どうしたものか...」と限られた時間の間、赤ボールペンの端っこを齧りまくっている有様です。

2008年4月30日 (水)

ふたたび文型

     「文法書というもの:PartⅢ」で文型について書きましたが、再び文型について附言したいことが出てきました。現在、教えている英文法のクラスでは、どこをみても「文型」一色で、とにかく文型、何が何でも文型、泣く子も黙る文型、と文型旋風が吹き荒れています。自分のクラスだけではなく、文法を担当している講師はすべて文型をトウトウと説きまくるわけですから、文法クラスはもう台風のような勢いになっていることでしょう。生徒も吹き飛ばされんとしっかりつかまっていなくてはなりませんから、大変です。
    
     断片的な教え方になると、二度と文型を真正面から取り組むことはないようなので、まさに台風の如き一過性の試練というわけですが、集中豪雨で泥まみれになった川の濁流には飲み込まれないものの、傘がオシャカになって全身あますところなくずぶ濡れになることはありうる。そして元気なく「台風(文法)は絶対避けたい」と呟きながらクラスをあとにするのです。
    
     「それは教え方が悪いからだ」という声は容易に想像できます。確かにとことん文型を研究してどのようなパターンにも適応させることができれば、こんなにすばらしいことはありません。事実、英文の構造を単純化して、すべて
    
     S(主語)
     V(動詞)
     O(目的語)
     C(補語)
     M(修飾語)
    
の五文字を使って英文解釈することは可能です。とくに修飾語である「M」の活躍により、メッセージの根幹である「S+V」を見切る練習が可能になり、英文の読み方に革命的な明晰さを見出すことはできます。しかし、それは英文の構成要素をなしている「主語」「動詞」「目的語」「補語」がどのようにつながっているかで

  ①S+V
  ②S+V+C
  ③S+V+O
  ④S+V+O+O
  ⑤S+V+O+C
  
の如く五文型を認識する仕事に終わり、肝心なメッセージの把握がお留守になることが多いのです。これはちょうど音読をきれいにやってのけたが、何を読んだか把握していない状況によく似ており、メッセージの理解に至るまで数回同じところを行きつ戻りつしながら読んでしまう習慣をつけてゆくのです。

   完璧に与えられた課題の文型を答えられても、メッセージを読み取ることができなければ、本末転倒です。しかし、文型の項目はとにかく文型を理解することに専念するのだから、メッセージの把握は後回しでよい、とする向きもあり、中々文型崇拝の擦り合わせた手を休めることはなさそうなのです。
  
   文型がわからないと訴える声は、どんな教え方であっても正当性をもっています。なぜなら、文型という考え方自体が「英語をかなり経験した人間」がわかる構造になっており、初学習者に教えるものではない、と私は感じております。まず、用語からして矛盾しているのにお気づきでしょうか。どうして「動詞」だけが品詞項目の名前になっており、他すべてが文の構成要素の名前になっているのでしょう?本来なら動詞を「述語」とするか、主語と目的語を「名詞」、補語を「形容詞かまたは名詞」としなくてはならないのです。私も中学のころ、いや高校生になっても悩んだものです。
  
   そしてその上、動詞の「自動詞」「他動詞」という特性について同時にやりますから、初学習者には新しい概念が多すぎてオーバーヒート状態になり、ここに修飾語句が入ってきて完全なエンスト状態に陥ります。ひと言「M」で言い表せるこの修飾語には恐ろしいほどの文法エキスが込められており、口の中に広がる強烈な味は、何を飲んでも食べてもべっとりと舌から喉の奥まで残ってしまう心地になります。
  
   いや、「M」に行く前に「補語」でひっかかる。今回新たに興味深い発見をしたのですが、ある生徒が「補語」と言えば「語」であって「句」ではないから「単語」を連想する、と語ってくれたことでした。以前文法クラスで厳しく用語の使い方を習ったらしいこの学習者は、さすがに鋭い切り込み方をすると感心しました。例えば、第二文型の
  
  Osamu is an A student.
  
であれば、補語は "an A student" ではなく、"student" である、という見方です。確かに補語といえば単語であるのが相応しく、語句のあつまりである "an A student" は補語とは言い辛いところが見受けられます。しかし、

  Osamu is a baseball player too.
  
となれば、補語は "player" になり、「オサムはプレーヤー」という関係はわかってもメッセージ性に欠けます。では補語はどこからどこまでを言えばよいのか、という問題が浮上し、"baseball player" だ、いや "a baseball player" のほうがよいなどと延々と議論が続きそうです。

   補語だけではありません。「目的語」にしても単語を意識しすぎるとバラついた英文の見方に陥ってしまいます。
  
  Martin Luther King,Jr. initiated the civil rights movement.
  
に見られる目的語は、単語だけ選べば "movement" になりますが、これでは一体何のことなのかサッパリわかりません。その前にくる civil rights は不可欠なものであり、そしてそれをきっちり指す the もなくてはならないのです。正確に言えば「目的語句」なのでしょうが、私たちは「補語句」とは一般的に言いませんので戸惑ってしまうのです。

   この問題は文法用語レベルでは解決が難しいように思えます。学習者にとりわかりやすい文法解説は非常に重要な意味をもちますが、しかし、書かれた(語られた)英文のメッセージが取れずに用語使用の正確さばかりを求めては、やはり本末転倒と言わざるを得ません。
   
   文型も当然のことながら英文の理解を前提にしていることだと思いますので、もし文型という教え方を最大に発揮させるのであれば、私は「次に何がくるかを考える」ためのツールであると認識をしています。つまり、英文の最小単位である

   S+V
   
があり、これを完全に掌握したあと、メッセージは「これで終わるのか?」それとも「まだあとに何か続くのか?」を判断し、もし続くなら「何があとにくるのか?」を読み取れる力、これを学習者につけてもらいたいと願っております。

2008年4月 8日 (火)

なぜジョークがわからないのか?

   英語を真剣に勉強し始めた高校卒業直後のころに読んだあるジョーク。ホームラン王のベーブ・ルースと監督の会話。
   
   
   「なあ、ベーブよ。今シーズン、ワールド・シリーズまで行ったら、おまえさんを世界一周旅行に連れて行ってやるよ」
   
   「そうかい。ワシはどこか他のところへ行きたいんだがね」
   
   
うる覚えですが、恐らくこのような会話であったように記憶しています。原文は英語だったと思われますが、日本語に訳されたジョークを読んでなにがオチ(punch line)なのかがピンとこず、ジョークとはギャグや洒落とは別物なのかと思い巡らした記憶もしています。それからしばらくしてあるジレンマに陥ることになりました。
   
   「ネイティブと会話をそれとなくこなせるようになったのに、ジョークが自然に笑えない・・・」
   
   英語を母語とするネイティブ・スピーカーと一緒に映画を鑑賞して、彼らが笑うシーンに自分が笑えず、なんとも言えない孤立感を味わったことのある英語学習者は少なくないように思います。はしゃぐように笑っているのだけれども、どこがそんなに可笑しいのか、さっぱりわからない。興味深いとさえ思えない。彼らは笑う、自分は笑えないという忌々しい現実をつきつけられ、しかたなく自虐的に笑うということも中途半端に終わるような顔の歪みを覚えて映画鑑賞を幾度終えたことでしょう。そのうちこんな体験をするのは嫌だと、自然に防御態勢に入ったのか、いつしか「ネイティブの笑いに負けるもんか!」という悔しさの課題も課題にならないまま時が過ぎてゆきました。
   
   正直なところを言ってみれば、「オレは留学を目前としている。アホなジョークにどう笑えばいいのかなどを考えるより、TOEFLテストで少しでも点をとって学部入学を果たすのが目的だ!」と自ら鼓舞するより仕方がなかったのです。
   
   しかし、これは今から考えると逃げの一手そのものでした。ジョークがわからない!という自分に向き合うのが怖かったのです。情けないと思ったのです。だから、いくらでも理由をつけて逃げまくった。
   
   今考えると、なぜジョークがわからなかったのか、さらに正確に言えば、なぜジョークに対して理解しにくい「体質」を作ってしまったのかがよくわかるのです。それは、留学の出発点である「学部入学」を果たすのに、TOEFLの点数をできるだけ上げることを至上目的としていた当時の自分に原因があったと考えています。つまり、選択肢四つの中から「正解ひとつ」を選び出す訓練に勤しんでいたため、ジョークを理解する鍵をいつまでも持つことができなかったのです。
   
   その鍵とは「遊び心」、そしてさらに具体的い言えば「ずれ」を楽しむ機会を持たなかったことが原因だったのです。
   
   ジョークに共通することは、日常の何の変哲もない事柄から思わず膝を打ちたくなるような「納得」と「笑い」が同居するところにあると思えます。そしてそれは日々の観察眼、洞察力から生み出される日常風景の再生なのです。簡単に言えば「ちょっと何かがずれている日常」を表現していることになります。
   
   人の顔にはまゆ毛があります。まゆ毛がなくても、それなりに(かなりイカツク見えますが)バランスのある顔なのですが、片方のまゆ毛だけがある顔を見ると、どこか可笑しい。いや、可笑しくてたまらない。ちょっとずれた感じとはこのようなずれ方で、あまりずれすぎる(まゆ毛がまったくない)と、返って面白みがなく、逆に「お見事」と言いたくなることもあります。
   
   毎日答えをひとつだけつまみ出すような勉強をしていたわけですから、「ずれ」ることなど眼中にあるはずがなく、「ずれよう!」と意識すること自体御法度なので、ジョークがわかるはずもない。
   
   ジョークがようやくわかりはじめるようになったのは、留学が2年を過ぎたころ、自分の生活に余裕が出てきたころのことでしょうか。答えをひとつだけ択ぶという作業から解放され、英語による自分の生活と表現が一体化しはじめたころ、ぽっかりと空いた穴にふんわりと入ってくる春先の風のように、乾いた五感にをくすぐりはじめたのです。
   
   上のベーブ・ルースのジョークは今考えると「何の無理もなく」理解できるわけですが、これはジョークを解説してもらったから、いきなり笑いたくなる、というものでもありません。自分で聞いて読んでその面白さが居合抜きの勝負のようにわかってくるのです。だから解説をされても可笑しくはないのですが、一応どんな構造になっているのか、原文の英語はありませんが説明してみたいと思います。
   まず、上の日本語訳を英語に拙訳してみます。
   
   "Well, Babe. If we make it to the world series, I will take you all around the world."
   
   "Oh yeah? I would rather go somewhere else."
   
   
さて、この短い会話の中で何が「ずれ」ているのでしょう?以下のポイントを見てください。

   ① 世界一周旅行をすればもう旅行をする場所は
     地球上にはないはず。
   ② ベーブは世界一周旅行をパリやロンドンのよ
     うに局地旅行だと考えている。
   ③ 「ワールド」シリーズまで行ったあと、再び
     「ワールド」一周旅行は面白くないとベーブ
     は考えた。
     
この三本の柱のひとつだけをとっても「ずれ」ているのがわかりますから、思わずクスッとなるのですが、一瞬にしてこの三つを感じ取ることもできるのです。そうなるとそれぞれの「ずれ方」が交錯して不思議な時空、私に限って言えばまるで時が止まったような心地にさえなるのです。ジョークの余韻が長引き、思い出すようにして笑いがいきなりこみ上げてくることもしばしばあるのです。

   英語学習者がこのジョークに笑えない(自分もそうでした)理由は、「世界一周旅行をワールドシリーズの前にするのは変だし、もしベーブがお忍びで誰かとこっそり近場に行きたければ、世界一周旅行などは大袈裟すぎるのが当然」などと解釈すれば、このジョークは木っ端微塵になってしまいます。理性を働かせて「なぜベーブは他のところへ行きたいと言ったのか?」を大真面目に考えた結果、ジョークは駄弁に降格してしまったのです。
   
   ジョークの面白さを理解するキッカケは、物事を色々な角度から見ることができる「複眼」をもつことに通ずるところがありそうなので、むずかしいことは考えず、まずは「遊び心」をもって言語に触れることがいいのではと思います。

2008年2月 3日 (日)

お持ち帰り英文法

   あと二ヶ月で4月がやってきます。別に憂鬱ではありませんが、2008年度の新クラスがはじまるかと思えば、「さて、次回はどのように英文法を斬り込んでみようか」と模索の日々が続くので、どこか「山ごもり」をやっているような気分になります。
   
   そこでいつものように考える。「よい英文法のクラスとはどんなクラスか?劣悪な英文法クラスの要因とは何か?」などなど。そこで生徒の生の声をジカに聞いて参考にしてみる。だいたい「英文法クラス」は面白くなく、ただむずかしく、役に立たないもの、という文法嫌いが多いのが常だが、「なぜ面白くないのか?」「なぜむずかしくなってしまうのか?」「なぜ役に立たないと思うのか」などを真剣に考えた形跡も ― 生徒にではなく ― 教える側の人間にないところがまず問題であろうと思うのです。
   
   文法の先生は、英会話の先生に比べ、ルールを教えるのが焦点になるせいなのか、どこか厳格で授業も緊張感を強いられると生徒は言います。ルールを教えるのですから、ルール違反をするとすぐさま「ピッ!ピッ!ピッ!」と警笛を鳴らされるようなことになる。「おい!そこの青シャツ!」とは言われないでしょうが、違反をしたことが、自分の英語経歴の中で「失態」として残るような状況を作ってしまっているのです。
   
   例えば「仮定法」などは「直説法」と混同しやすいため、間違えやすくなります。ルール違反というより「仮定法」だと思ったらよく見ると「直説法」だったというようなことなのですが、ともかく厳格講師のもとでは「赤信号」なのに止まらず突っ込んできた!とものすごいい剣幕になるのです。
   
   ネイティブでもよく間違うのですが、仮定法と直説法はあるていど「だぶってしまう領域」があり、どっちとも見分けがつかないときがあるのです。それを何を根拠に、頭ごなしに「仮定法と直説法じゃ『現実』と『非現実』ではないか!そんな基本的なこともわからないヤツこそ『非現実』ダァ!」とまで言う人はいないと思うのですが(近い人はいます)、このような文言や叱咤自体が「非現実的」だと思いますね。
   
   「楽しく英語を学ぶ?」の頁でも書いたのですが、英文法を「苦しまなくては学べない」と決め付けて考えてしまうと、楽しく学習すること自体が罪なことで、実力もつかない、という実しやかな暗示をかけられてしまった気になるから恐ろしい。仮定法がわからない!と苦しんでいる生徒は、その苦しみだけで仮定法がわかるようになるとは到底思えないのですが、厳格講師の下ですと、苦しんでいるからどうにかなる、と自分を慰めている生徒さえいるのです。
   
   第一、仮定法の例文には、食べもので例えれば、美味しそうなものはあまりありません。批判めいたことで恐縮ですが、「ロイヤル英文法」にはこんな例文がありました。
   
   "If somebody entered this room with a gun, I'd be very frightened."

「もしだれかがこの部屋に銃を持って入ってきたら、さぞ肝をつぶすことだろう」という意味の英文ですが、私が不思議に思うのは、「現在または未来についての可能性の乏しい想像」という項目であるからといって、なぜこのような「本当に可能性に乏しくなってしまう例文」を出すのか、なのです。

   「この部屋」を意味する this room とは、いったいどんな部屋なのでしょう?当然、話者がくつろいでいる部屋にきまっているじゃないか!と厳格講師はすぐさま反論するでしょう。しかし、ただ話者がある固有の部屋でくつろいでいて、別の話者に「いやあ、この部屋にだれかがピストルを持ってきたら、肝つぶしちまうぜ!」(時代を感じさせる台詞です)と語りたくなる動機とは、一体何なのでしょうか?
   
   私が想像するに、この英文のキーワードは this room であるはずなのに、いつのまにか「可能性の乏しい想像」に引きずられ、「銃を持って入る」の部分にウエイトが置かれてしまった、のではと思うのです。this room が鍵となるのは、「この部屋」というものが「絶対安全地区」であり、ピストルを持って入ることなどあり得ない、それ故「仮にだれかが持って入ったら、あり得ないからこそ、天地がひっくり返るほど驚く」と語れるのです。
   
   でも!だれがこんな英文(と言っては失礼ですが)を語りたくなることでしょうか?動機の主旨が定まらず、これなら「今地球が真っ二つに割れたら、天変地異どころじゃないな」とか「もし私が像だったら」だとか「一億円当たったら」などと無意味に「仮定」できるわけで、学習者自身の「仮定法で語ってみたい動機」に結びつかないのです。
   
   またよくある文法解説で、「時を表す副詞節の中に助動詞 will を使うことはできない」とこれも実しやかに語られます。生徒はフンフンと講師が板書するのを写し取り、ノートブックにきちんと写し終えたのを確認して安心するのです。このとき
   
   「先生、どうして時を表す副詞節の中で will は使えないんですか?」
   
   
とだれも聞かないことが(とても非現実的です!)不思議なのですが、「それ以上のことは知らないから教えられない」と返事が返ってきたとたん、生徒は学習意欲を失うと考えたのか、これは「鉄則」として「質問はしない」通達の暗黙方法を厳格講師などはちゃんと心得ているようなのです。しかし、この場で「なぜ?」を教えられなくては、英文法は「お持ち帰り用の弁当」になってしまうのです。

   家に帰って弁当をあけてみる。注文した品(文法)であることには違いないのですが、冷えてしまっている上、味も恐らく温かいときとは違う。レンジでチンしてもいいのですが、さらに味が変わってしまうかもしれない。
   
   家に帰ってフタ(ノートブック)をあける人はまだマシです。文法の授業で必死に長く板書をしただけで終わったり、厳格講師の考えている通りの答えが出ないと叱られ続けるというような店(クラス)じゃあ、「お召し上がり」は控え「お持ち帰り」にするほうが傷つかなくていい。
   
   私が思う「面白い文法クラス」とは、講師と生徒が押し問答のように丁丁発止とやれるような時空でしょう。クラスで「食べて」感動してもらいたいのです。家に持って帰って賞味するのも必要なときがあるでしょう。しかし、なるべくクラス以外の空間では、自分自身の探求に勤しんでもらいたい。自己表現できなければどんな英文法をもってしても、語ることはないからです。

2008年1月28日 (月)

楽しく英語を学ぶ?

   楽しく英語を学ぶ、とはどういうことでしょうか?「楽しく」という方法があるのなら「苦しく」という行き方もあるはず。おそらく「楽しく英語を学ぶ」という動機そのものに「英語の学習は苦しい」という現実(?)があるからなのかも知れません。
   
   英語の学習に関する本は星の数ほどありますが、「苦しめ!」とシゴキに似た英語の修行法は、一部(松本道弘氏が提唱する英語道など)を除き、あまり受けがよくないようで、そうとは謳っていないものも含め「楽しみながら」英語学習を薦める本が圧倒的に人気が高いようです。
   
   ところが、「楽しく英語を学ぶ」とは、それ自体どういうことなのかを説いた本はほとんどなく、映画を見ながら英語を学べば楽しかろう、スグにネイティブと会話ができるコツがあれば面白かろう、と楽しさの前提を勝手に決めてしまった感のあるものばかりです。
   
   書いている著者にとって楽しい方法であっても、読者がどう考えるかは別問題です。ところが不思議なことに「楽しく英語を学ぶ」と書いてしまうと、普遍的な楽しさを追求した方法があるのかと、つい思ったりしてしまうので、本に手が伸びてゆくのです。
   
   「私の薦める方法が楽しいかどうかは読者が決める」と結論づけるのなら、妥当であるとは言えるものの、どこか独り善がり的な「楽しさ」を読者の判断とは別に、すでに肯定してしまっているような印象をもってしまうのです。まあ、書物は読者に「ねぇ、楽しい?」と語りかけてはこないので、仕方のないことなのかも知れません。
   
   しかし、どうせ勉強するなら楽しくなければ面白くない。「楽しく英語を学ぶ」楽しさとはいったい何なのでしょう?
   
   これは簡単に答えられる問いではなさそうです。しかし、私はこれに答えなくてはならない義務のようなものを感じます。なぜなら、現在英語を教えている生徒の中に、「英語を勉強したいが、楽しく学習できない、自分から率先して英語学習に勤しむことができない」と悩んでいる人が多いからです。自分でお金を払い、クラスをとっているという「姿」は、この人には学習動機があると外見的に判断してしまいがちですが、実際はどこか「空虚な時間」を過ごされている学習者も少なくはないのです。
   
   それもそのはず。楽しいと思ったはずのクラスが楽しくない、と急展開すれば、どう学習に接すればいいのかわからなくなるのも当然。なので、まず「いかに楽しく学ぶか」に答えるより、「なぜ楽しくないのか?」を考察する必要があります。そして、これはちょっと予感するだけでも、底なし沼のように、ひとたび身が浸かってしまえば、這い出ることができない無間地獄の如き苦境の極地を想像してしまうのです。
   
   あるとき涙を流しながら訴えにくる生徒がいました。聞いてみると、自分はよく休みがちだし、クラスにも遅れてくることが多いから、他の生徒に迷惑がかかるのではないか、という悩みでした。私は、他の生徒と歩調を合わすのは、ペアを組んで練習するときだけで、それ以外他の生徒を意識することは ― してもいいのだけど ― ほとんど必要ない、と答えました。
   
   その生徒はそれだけでは理解できませんでした。なぜなら、別のクラスで他の生徒との融合がうまくいかず、講師から厳しく叱られたという経験をしていたからです。クラスへの「参加ぶりがよくない」と批判され、私的な生活態度までが例にとられて批判の対象になり、英語の学習態度、生活態度をなんとかしないと、成績は伸びないどころか、ここで成功例を作らないと将来うまくやっていけない、とまで言われたそうです。
   
   世の中にはこのような激励というより叱咤のほうを好まれる方が少なからずおられるようですが、それは個人の嗜好なので問題はありません。問題なのは、楽しく英語を学びたいと考えている人に、苦しまなければだめだと喝破することなのです。そこには「苦しまなくては一人前になれない」という大前提があり、それが立証されている、いないを除外し、正当なる学習態度であると信じきっている傲慢さが顔を見せるのです。同時に「そんな甘ったれた考えかたで世の中渡ろうなんてワタシが許さない!」というハラスメントも見え隠れしているのです。
   
   確かに語学を効率よく学習するには「ライフ・スタイル」が関わることを否定することはできません。読者が好きな人なら外国語で reading をする機会に恵まれるであろうし、電車やバスを待つ時間に覚えたい単語や表現をまとめたノートを取り出して少しずつ覚えるのが好きな人は、外国語の習得におそらく長くはかからないでしょう。しかし、そのように努力を惜しむことなく学習に励む、という「姿」を作り上げるのが目的ではないはずです。本人にとり学習の動機は「そうしないとテストに受からないから」であり、あるいは単に「時間が惜しいから」に過ぎず、または「学習が好きだから」なのかもしれないのです。
   
   つまり、なぜ歩きながら英書を読んだり、独り言のように英語を口ずさんでみたり、リスニングのディクテーションを電車内でやったりするのは、どんな理由からそうしているのかはっきりはわからず、ただ外見的に見ると「ああ、やっているなぁ」とその学習、生活態度の「姿」を第一印象にとり、そして第一印象を「その人すべての結果」に直結させてしまう、ことを無意識のうちにやってしまっているのではないでしょうか。そしてそのような「姿」が見られなかったり、あるいは(または、それに加え)学習者の言葉遣いや会話の内容から「学習の意欲」が感じられなかったりすると、途端にスパルタぶりを発揮する講師は少なくありません。   
   「オレは苦労した。血反吐を吐いた。でもそのおかげで英語で食えるようになったし、有名にもなれた。支持者も多い」と声高に謳うと、圧倒されてしまう人は多い。あまりうだつがあがらない同業者やその志望者の前で言えば、さらに効果が倍化されてしまいます。しかし、私は、そのような英語の猛者が語る英語自体に傲慢さを読み取り、「勝ち組み、負け組み」のテストを課されている気になってしまい、そして「できないヤツは置いていく」弱者切り捨てを感じてしまうのです。 
  
   「なんだ、お前の英語は。フヌケのような喋り方しやがって。発音がなってないよ!それに発想が日本語母体というのがミエミエじゃないか。どうせラクして英語をやろうなんて考えていたんだろう。そうはうまく行くか」と邪険に責めたてる御仁はそういない。もしいたとしても、どこかけなし方に誠実ささえ窺えるので、ひどく傷つかないかも知れません。
   
   よくあるのは、叱っても英語の技術的な面で言葉を選んで叱るのではなく、やはり生活態度が問題にされてしまう。「ラクしてやろうなんてそうは問屋が卸さない。そういう甘ったれたことを考えているからロクに単語も覚えようとしないんですよ。第一、テキストを忘れてくるなんて、やる気がない証拠です。昨日は2時間勉強した?ダラダラとやっていたら意味がない!それなら15分思いっきり集中するほうがマシよ。時間がなくて宿題がやれなかった?時間は作るもの!時間がないなんて、言い訳にもほどがあります!」とエンエンと続きます。
   
   「ラクしてやろう」なんて思っていなくて、ただ「楽しくやろう」と考えただけなのに・・・。
   
   結局「楽しく英語を学ぶ」は「ラクして英語を学ぶ」に解釈され、手を抜いてなるべく学習しないでTOEICなどの点数を上げたいと考えている怠け者というレッテルが貼られてしまいます。手抜きなどと考えていなくても、結果だけを見て判断されてしまいますから、向上しなければ「怠け者」と言われてオシマイ。どんなプロセスを通って「今の語学力」になっているのか、そこを問わずして、学習者に効果的な「教授」をどうやってみせようというのでしょう?
   
   「怠け者」のレッテルを貼ることで「甦生」する生徒は ― 私の経験から言えば ― まずいません。語学学習(にとどまらず)に「苦しさ」はつきものですが、「苦しさ」は他から甘受するというより、学習者自らが「自然に」見出し、自分なりに対処してゆけばいい。まずは自分本位になること、これが大切だと思います。

   クラスという集りは、少数単位の「小社会」を形成しているようです。それ故、社会に通ずる規範的ルールがまず頭をもたげ、「自分本位」は許されず、学習者をしばってしまいます。その瞬間、外国語(英語)はブラックホールに吸い込まれたような空間になり、楽しいはずのクラス(現社会とは異次元の空間)が楽しくないクラス(単なる別の人間社会)になるのかも知れません。しかし、采配をふるうのは、教える者なのです。

2007年12月10日 (月)

文法書というもの: PartⅢ

   いわゆる「文型」というものに、英語を習いたての中学生のころ、大いに抵抗感を感じた。五文型とやらを理解すれば、英語の仕組みが一気に紐解け、世界が違って見える、と先生は言わなかったが、参考書や「できる学生」たちは囁くのです。裏を返せば、文型がわからなければ英語は理解できない、ということでもあるのです。
   
   あれから35年経った今、どうやら文型というものはわかって久しくなっており、世界が違って見えるかなと問いかけるのですが、どうもピンと来ません。どうやら私にとり、文型とは気持のこもらない、なにか極端に冷たいもの、ぬくもりを感じ得ないものとしてあるからなのかも知れません。
   
   ご存知のとおり、五文型とは以下の五つを指し示します。
   
   ● S+V      第一文型
   ● S+V+C    第二文型
   ● S+V+O    第三文型
   ● S+V+O+O  第四文型
   ● S+V+O+C  第五文型
   
 これに修飾語の「M」(modifier) がくっついて、「S+V+M」になったり、「S+V+M+C」となったり様々な英文のパターンを簡単な記号で示すことができるのです。
 
   こんなに英文の構造は簡単なのか!と驚いてしまうのはある意味納得できるものです。物理学の定理のような明解さがあります。これを発明した人は英語学習に「革命」を起こしたにちがいないでしょう。
   
   しかし、革命後、英語学習が楽になるかと言えば、どうもそうではなさそうな気がします。もっとも私の場合は中学、高校と、この五文型の骨子を最後まで先生や参考書が仄めかすように見通すとこができなかったので、「文型をマスターしたあとの英語学習」はあくまで仮定法になってしまいます。
   
   現在、この文型システムが匂わせる「意図」らしきものは体得したわけですが、英語学習がこれで楽になったとは一度も思ったことがありません。むしろ逆です。簡単な解析モノサシを使ったがゆえに、英文構造の拡がりをふさぎ込んでしまったような気持にさせられてしまいました。なんでも「型」に押し込めるとでも言えばいいのでしょうか、そんな窮屈さを感じるのです。
   
   たとえば、次の英文を文型で言えばどれにあたるのでしょうか?
   
   I want you to stay here.
   
この英文を第五文型に類すると主張される先生方がおられます。各構成要素を見てみると、

   「I」(=S)
   「want」(=V)
   「you」(=O) 
   「to  stay」(=C)
   「here」(=M)
   
ということなのです。よく「主格補語」だとか「目的格補語」という言葉が使われますが、第五文型の場合、目的語「O」に対する補語「C」であるから「目的格補語」と読んでいるそうですが、これには相当違和感を感じます。補語の名目として主語や目的語と同格だがら、「S=C」「O=C」という等式を用いますが、主語が常に名詞であるのに、補語が形容詞になった場合、なぜ「=」で結べるのか初学習者にはわかり辛いし、この英文の場合でも「you=to stay」にどうしてなるのか、非常にわかりにくいものだと思うのです。

   第一、初学習者には、「補語」だの「目的格」だの「修飾語」だのと、文型以前の問題が山積しているので、このような記号の羅列は(少なくとも中高の私にとって)重荷にしかならないのでは、とため息をついてしまうのです。
   
   今、この英文をどうしても文型に入れろ、と言われれば、
   
   S+V+O+M+M
   
と、「C」を「M」に変えていますが、自身完全に納得したわけではありません。不定詞句をどうとらえるかがポイントになりそうですが、不定詞はあの有名な「三用法」があり、この英文は参考書を見る限り、その三用法の対象とはされず、特殊な不定詞として扱われているようです。これではなんのための三用法なのか、と叫んでみたくなりますが、文型にしても、江川泰一郎先生は「英語の文がたった五つの文型で処理できるはずはないが」と前置きされて、この文型は不定詞を含む特殊な文型として扱われています。「絶対的なものではない」とこれも前置きして、江川先生は自分の文法書で使った英文の種類を五文型を基本にパターンを見出そうとされた結果、なんと28種類にもなったのです。

   おまけにこの文型というものを文法クラスのはじめに行う場合が多いのです。そうなると、英語嫌いが続出してもおかしくはないでしょう。

2007年12月 3日 (月)

文法書というもの: PartⅡ

   文法書には必ずと言っていいほど「品詞」がでてきます。あたりまえだ!と怒鳴られそうですが、中学のころ、どうしてこのようなもってまわったムズカシイ表現をしなくてはならないものかとボンヤリ考えていました。品詞がなくて、その代わりに、

   『「私」は英語で "I" という。「あなた」は "You" で、「ネコ」は "cat" という』

というようなレベルでよいのではないかと、どれだけ思ったことでしょうか。しかし、一旦品詞を理解すると英文法がわかりやすくなることも確かで、文法用語を正しく覚えて認識できれば、これだけでかなり英文法を理解しているかどうかの目安にもなります。

   ということは、真に「主語」や「動詞」「形容詞」「副詞」を理解していれば、英文法を正しく認識している、ということになり、品詞を理解していなければ、英文法の力は怪しい、という論じ方ができそうです。現に文法用語の説明がつく、つかないでその人の英文法能力を判定する講師もおられるほどで、英文法を知らない人がこのような判定方法で迫られてくると、講師の造詣の深さを思い知らされると同時に、英文法がとてもおっかないものに見えてくるという声もしばしば聞きます。

   しかし、英語がひとかどにできる講師が、できない学習者に権威的態度をふりかざすのはまったく学習者の英語環境に貢献しているとは言えず、ただでさえ読んでもチンプンカンプンなる英文法を理解していこうとする気力を大いに奪ってしまう可能性のほうが高くなってしまいます。迷路に迷い込んだ学習者を自力で脱出させる目的で、意図的に厳しい問題を繰り出す、というのは理解できますが、気力体力が充実していなければ、外国語を学習すること自体がとんでもなく「非日常的」なあまり、興奮と同時に相当な疲労も心身にきたすわけで、学習者の中から必ずと言っていいほど途中棄権者が出てくるのです。

   そこでまずつまづくのが品詞ではないか、と仮説を立ててみました。私が品詞という迷路に迷い込んでしまって相当長い間出られずにいたからだというのが言い訳ですが、とにかく先生に「何がわかりたいか?」と聞かれて「品詞」と即答したほど、「品詞って何?」という漠然とした疑問がいつも頭を覆っていたのです。

   なぜ品詞がわからなかったのか?を冷静に考えてみました。今だから言えることなのでしょうが、恐らく、品詞の説明をただただ「概念的」に習ったために、中学生のボンヤリした頭では(私に限ったことかもしれません)、負荷が大きすぎたのです。手持ちの問題集を開いてその一例を書いてみると、
   
   ● 名 詞: 人や事物の名を表す語
   ● 代名詞: 名詞の代わりに用いられる語
   ● 動 詞: 人や事物の動作や状態を表す語
   ● 形容詞: 名詞を修飾する語
   ● 冠 詞: 名詞を修飾する語
   ● 副 詞: 動詞、形容詞または他の副詞を修飾する語
   ● 前置詞: 名詞または代名詞の前に置かれ他の語との関係を表す語
   ● 接続詞: 語と語、句と句、節と節をつなぐ語
   ● 間投詞: 感情を表す語
   ● 助動詞: 動詞の意味、時制などを補う助けをする語
   ● 疑問詞: ある種の疑問文を作る語
   ● 関係詞: 文と文をつないだり特定の語を修飾する語
   
とありますが、ここには不定詞、動名詞、分詞などの「準動詞」は含まれていません。もし書いてあったとしても、これだけですでに12品詞もあるのです。中学生の私には、この品詞を理解するのに頭を悩ませていました。先生は説明したのになぜわからないんだ?という不思議な顔をします。

   数の問題ではないでしょう。よく八品詞という表現を聞きますが、その八つの品詞である「1 動詞、2 名詞、3 代名詞、4 形容詞、5 副詞、6 前置詞、7 接続詞、8 間投詞」にしたとしても、場所を変えてみた引き出しの中はやっぱりむずかしい品詞が眠っている。私は「副詞」の引き出しを何度も開けて中をみてみましたが、正直なところ、副詞のシンボルをつかんだのは、つまり、副詞がどんな顔をしているのかやっとわかったのが、高校3年の頃だったように思います。
   
   もっとも英語ではじめに覚えるのが名詞で、文章を作るのに必要になるのが動詞ですから、名詞と動詞だけで可能な限りの英文機能を体験させて欲しかった、と思ったのはもう高校を出たあとでした。やたらに長い修飾語(この言葉を真に理解するのに3年かかったのです)ばかりが並んで、テストに出せば「試し甲斐がある」とテスト製作者の声が聞えてくるような問題ばかりを相手に四苦八苦していたのです。
   
   品詞の機能を教えるのは大いに結構ですが、トップダウン的な押し付けは今でも生徒にとりプレッシャー以外のなにものでもないようです。教える先生や講師は英文法をよく理解しているというのがわかり、その理解に乗じて熱弁を振るうのもわかるのですが、自分が理解しているという事実は即他人も理解できるという決定的な要因にはならないようです。英文法書のほとんどが「英語の理解できる人向けに作られた本」であると今でもそう思っているし、早く足場を組んで解体作業をしなければ、どんどん英文法ばなれは歯止めが利かないと思うのです。

2007年11月25日 (日)

補語とは何か?

    中学の頃、「補語」という言葉がわからず、英文法が疎遠になっていったことを覚えています。今になってもこの「補語」という言葉は好きではありません。なぜかを考えてみました。そしてその答えが明確にわかったのです。
   
    『いくら文法書で「補語」を調べてみても、補語の正体がわからない』
   
だったからです。有名な某英文法書によれば、補語の定義は

  <『主語+動詞』、『主語+動詞+目的語』だけでは意味が不完全な場合
  に補われる語(句)を補語という。>
  
と書かれてあります。

  『主語+動詞』、『主語+動詞+目的語』だけでは意味が不完全な場合とは、どんな場合なのでしょうか。いくつか例文がのっているので、参照すると、
  
   I heard my name called.
   
   I saw Mary looking into a show window.
   
というのが目に入ります。それぞれ called と looking を抜きにすると「意味が不完全な場合」になるので、これらの called と looking は補語になると考えれている所以です。

   しかし、この英文、別に called や looking がなくても、それまでの英文解釈はちゃんと成立しているのです。
   
   I heard my name.
   
   I saw Mary.
   
これだけで英文の意味は一応完結しているのです。それぞれ「自分の名前を聞いた」「メアリーを見た(会った)」になるのです。この短い英文を「不完全」として補佐する言葉を付け加えたあと、これを「補語」とするこの解説には違和感を感じてしまうのです。

   一方、わかりやすい「補語」の定義とくれば、「主語」=「補語」という図式が思い浮かびます。この be動詞は(=)である、という見方は万全のような気がしますが、それは
   
   I am a student.       I = a student
   
というように簡単にさばける例文に限ったことなのです。もしこれが

      He is under the tree.
      
だったら、この図式で言えば、  He = under the tree となって、どう考えてみても「彼」が「木の下にいる」ことになり、彼という「人間」が「木の下」と同じ存在であるのは非常に考えにくいことです(この文法書によれば、under the treeを「付加語」として説明していますが、見たことも聞いたこともない文法用語でちょっと驚きました。「付加」されている「語」というのは、一体どういう根拠でつけられたのか、わかりにくい)。
   
   考察を続けると、補語は形容詞になることもあり、
   
   I am diligent.        I = diligent
   
という図式ができあがりますが、なぜ「私」という代名詞が「勤勉である」という形容詞とイコールで結べるのか、考えると不思議なのです。be動詞を(=)として結べるのは

   Air is air.
   
だとか、

   Seeing is believing.
   
のように、前と後ろにくるものがまったく同じ物か同格のもの、という気がしてならないのです。もし、be動詞により主語と補語が(=)関係で同等であると結論づけるのなら、

   The man is a movie critic.

という英文の The man と a movie critic(映画批評家)が同じになるのです。「それでいいじゃないか」といきたいところですが、まだ鵜呑みにしないでください。"The" man と "a" movie critic が同じことになってしまうのです。中学生が純粋に「どうして The のついた名詞と a のついた名詞がイコールになるのですか?と聞かれてどう答えればいいのでしょうか。さらに、

   He is small potatoes.
   やつはどうでもいい小物さ。

   I am not the cops.
      オレは警察なんかじゃない。

となれば、数として主語と補語が合わなくなっています。ちなみに上の例文は「ゴッドファーザーPart Ⅱ」でユダヤ系マフィアを演じたリー・ストラスバーグの台詞を抜粋したものです。下は「デパーテッド」のジャック・ニコルソンが吐く台詞です。この問題は特別なものではなく、正式な表現ではないにしても「例外」ですましてしまう排他的なものでもありません。例えば次のような表現

   Dogs are a friendly animal.

はごく普通に使われ、学習者は主語の数と補語の数が一致していないことに釈然としないまま、整理が行きとどかない項目は静かに除外してしまうことさえあるのではないでしょうか。

   私が思う補語とは、主語と(=)で結べるような関係というより、主語を文字通り「補って」いる語ではないかと思うのです。be動詞を「在る」という、それだけで主語の存在が自明になるような動詞だと考え、補語は「~的あり方」をするものとしてとらえています。中学でも習う

   I am a student.

は和訳すると確かに「私は学生です」になります。しかし、これは「私」という人間が常時、いかなるときも「学生」であるという意味ではなく、あるときは学生で、あるときは14歳の少年で、あるときは両親の息子であり、またあるときは熱烈な映画ファンである、勤勉でありながら怠けることもあり、ちゃっかりしていながら正直なところもある・・・と多面性をもつのが人間でしょう。だから、

   I am a student.
   I am a fourteen-year-old boy.
      I am a son.
      I am a movie buff.
      I am hard-working.
      I am lazy.
      I am clever.
      I am honest.

と立て続けに言ってもおかしくないわけです。そして「一体あなたはどれが本物なのか?」と問う必要などまったくなく、「私」は常に補語にあたる表現よりは大きな存在なので、そのときの気分により様々な補語が可能だと思うのです。そして今のところ、私にとり補語とは「主語を別の言い方で示す比喩」だと考えているのです。
   

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